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心のエコ
心のエコ
「あの人は心持ちが若々しい。こんなことじゃあ年の取りがいがないじゃないか!」
これは、小林秀雄氏の弁だ。氏は、円熟した思考を堂々と示す大人が少なくなったことを嘆いている。
ふつう私たちは、心身ともに若いと言われることが何よりのほめ言葉だと思っているので、氏の弁はかなり衝撃的な言葉に聞こえる。しかし、私たちは、あふれかえる情報をうのみにしてはいないだろうか。生きるエネルギーを間違った方向に使ってはいないだろうか。
同じ物事をとらえるにも、たとえば、二十代で感じることと四十代で感じることとは違う。そこに二十年余の経験が加わるのだから当然だ。そしてどちらにも独自の価値がある。若い人と同じような考えを持つことがまったく不必要だ、と言っているのではない。年を重ねた自分を大切にせず、「若い人に置いていかれない」ために努力を重ねるエネルギーは本当に必要なのか、と疑問に思うのだ。
学生時代に読んだ本を、年月を経て読み返して、思わぬ発見をする、というのは、多くの人が経験していることだ。私自身も、小林秀雄氏のような考え方、生き方はすばらしい、と初めから思ったわけではない。私が初めて氏の文章に出会ったのは、高校時代の問題集の中だ。出典に氏の名前が載っていたら、それだけでやる気が失せた。頭を抱えた。当然のことながら、このときは、氏の言葉に感銘を受けている未来の自分など、想像もしなかった。が、約二十年を経て、私にもようやく氏の考え方生き方に共鳴する部分が生まれた。そして、今や、くじけそうになると氏の講演CDを聴いてパワーをいただいている。
「エコ」を無駄なエネルギーをなくすこと、ととらえるなら、今の自分を等身大で引き受け、大切にしていこうとする氏の考え方、生き方こそ、「エコ」だと言えるのではないだろうか。逆に、あふれかえる様々な情報から自分に必要な情報を選択できずに、その情報に翻弄され、あらぬ方向にエネルギーを費やす現代人の心ほど「エコ」から遠いものはないのではないだろうか。私たちは、無駄なエネルギーをなくそうと言いながら、盲目的にその真逆を進んでいるのかもしれない。
考えてみれば、目的や意味を考えずに行動し、無駄なエネルギーを費やしていることは多い。昨今は、マニュアル全盛期となっているが、マニュアルそのものを覚え、忠実に守ることが目的になっていないだろうか。サービスの均質化に、マニュアルが大切なのは分かるが、マニュアルが作られた目的を見失っては意味がない。これでは、作った方も実践する方も、エネルギーの無駄遣いになる。人は本質的に、心の通ったものに魅かれるはずだ。流暢にマニュアル通りに話せる人より、うまくいかなくて困ったら困った顔をしている人に魅力を感じるものではないだろうか。
つい先日も、学校給食の牛乳にストローをつけるかどうかが問題になっていた。ゴミを減らそう、ということで始まったようだが、口をつけて飲むのは不衛生だという意見と対立したらしい。衛生面の解消はストロー復活だけなのだろうか。そもそも、身近なストローを通じてゴミを減らそうという、将来を担う子供たちへの動機づけが目的ではなかったのだろうか。それなら、ストローを減らしたところでゴミの量は大して変わらない、という専門家の意見を示してどうなるのだろう。目的を見失って迷走しては、エネルギーは無駄に使われるばかりだ。「エコ」を教育するはずのエネルギーが、「エコ」にならないという皮肉な結果になっている。
何が大切なのか見極めて、それを追求して生きる、腹を据えて自分に向き合って生きる、こんな「エコこころ」は、それぞれの人の心の中にあるに違いない。みんなが「エコこころ」を意識すれば、人生を豊かに生きられるに違いない。迷走する人々を見ていて、こんな「エコ」に気づかされた。
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